僕がMTGを始めた時の話①
今は昔、それは小学生の頃にまで遡る。約20年ほど前の話だ。
自他共に認めるポケモン好きの僕は当然のようにポケモンカードゲームからTCGの世界に足を踏み入れた。(ポケモン好きのイメージがない?少なくとも当時はそうだったし、大学生の頃もそうだったと自負している)
しかし、GBのゲームとしてのポケモンをやっている人は多くてもポケカをやっている人はそう多くはなかった。
例に漏れず、僕の地元の小学生たちも遊戯王に熱を上げていたのである。
今より周囲に合わせることや空気を読むことに長けていたYu-ki少年は友達と話を合わせて遊ぶために遊戯王を始める。
周りがサーチやヒエラルキーが下の人間とのシャークトレードをしてデッキを強化している中、Yu-ki少年はテキトーに組んだデッキで暇を潰、……友達と遊ぶ毎日を過ごす。
生贄が要らないコスト4以下をばらまいてハーピィの羽箒とサンダーボルトで相手の盤面を更地にして勝つのが主な動きのデッキだった。(ルールうろ覚えにつき細かいツッコミは禁止)
どちらかといえばコントロール寄りな動きで、勝てる手札が揃うまで動かず、手札が揃えば速やかに決着をつける、そんなデッキだった。(はず)
MTGでは「ライフは1点あればいい」というようにコントロールデッキは死ぬ直前まで耐えてそこから大逆転を演出して勝つのだが、僕の地元にはとてつもないローカルルールがあったのだった。
それは、
「ライフ4000点」
マジックでいえばライフ10点である。こんなものお話にならない。早いデッキ使いが圧倒的な勝率を誇ったのである。
僕は最初は付き合いで始めたこともあり公式のルールなんて知らなかったのでライフが4000点が当たり前だと思っていたが、ある日ひょんなことで公式ルールのライフが8000点だと知って驚愕し、仲間内でのルールの改正を求めた。
しかし、彼らもライフが倍に増えれば勝率が下がることを理解していたのか、ルールを変えたければ全員に勝ってから言えと。
正直言っている意味がわからなかったので、僕は小学生にしては可能な限り論理的に説得を試みた(つまり暴力は使わなかったという意味だ)が、何の効果もなく、彼らとの付き合いが面倒になった僕は遊戯王をやめた。
(一緒に遊戯王をしなくなったというだけで普通の付き合いはあったよ)
遊戯王をしていた比較的ヒエラルキー上位の仲間内から外れた僕は、校庭の隅っこで違うカードゲームに興じている同級生の一団を見つけた。
彼らは素敵なイラストのカードを使い、聞けばわずか20点のライフでゲームをしていた。
その20というシンプルな数字は、4000か8000かで争いをしていた当時の僕には非常に控えめで、知的で、つまり、大人の趣があるように感じられたのだ。
これがYu-ki少年とMTGの出会いである。
そこからはあっという間にマジックにのめり込んだ。(これには当時はまだマジックをしていたデュエルマスターズの漫画の影響も大きいだろう)
当時一緒に陸上をしていて仲の良かった数人の(奇しくもあまり遊戯王に乗り気でなかった)友達にも布教し、地元の児童館の一室でひたすらマジックをする日々。
なぜか近所の駄菓子屋がマジックを扱っており、当時1パック15枚入り525円するインベイジョンブロックのカードをお年玉片手に買いに行ったものである。
当時の僕は今以上に速攻デッキを好み、初手に怒り狂うゴブリンと山が来るまでマリガンとか意味がわからないことをやっていたりもした。
特に強かったのはラノワールのエルフからヤヴィマヤの火を設置し、有角カヴーや火炎舌のカヴー、そしてブラストダームを走らせる、いわゆるファイヤーズで、火さえ引ければ負けなしだったといえる。(そもそもシングル買いがない田舎なので火は1枚しかない入っていないので、勝率はそこそこであった)
修学旅行でもマジックをするメンバーで班を組み、部屋ですっとマジックに興じていた記憶がある。
こうしてYu-ki少年とその仲間たちは中学に入りバラバラの部活に入りそれぞれの道を歩むその時まで掛け替えのない時間を過ごすのであった。
(当時ルール勘違いしてて敏捷なマングースに怨恨貼っていたのは許してにゃん☆)
つづく